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お金じゃ買えない | 藤原和博 | ちくま文庫 | 2001

UPDATE : 2014/Dec/16
AUTHOR: コトバノイエ 加藤 博久

vol.11

「正しいこと」ってなんとなくウサンクサイ。

 

より正確に言うなら「正しいことについて語ること」が、かな。

 

 

サリンジャーの「ライ麦畑」で、ホールデン・コールフィールドが連発する”phony (インチキ)“ という感覚に近いかもしれない。あるいは、”smell fishy”なんていういかにも英語らしい表現もある。

 

 

風呂では文庫本を読む。

 

 

もちろん濡れてもいいように、というのがいちばんの理由だけれど、ペーパーバックならではのカジュアルな雰囲気が、風呂場での20分によく似合っているような気がしている。

 

 

文庫本はほとんどの場合100円もしくは50円の均一棚でというのがひとつのルールみたいなものだから、その選び方は単行本とは自ずと違ってくる。

 

 

単行本を買う場合は、その本を自分の本棚に並べるだけの存在感があるかとか、その本にそれだけ(表記されている価格)の値打ちがあるかとか、けっこう真面目に考えて、ときにはすごく迷って買ったりするんだけれど、文庫本の場合は躊躇がない。

 

 

とにかくその時その場の気分で、何かを感じたら、迷いなくただ選ぶだけだ。

 

 

そしてそれは読む本を選ぶときも同じで、風呂で読む本を選ぶときは、無造作に積んである未読の文庫本の棚から、その場その時の気分で、適当にピックアップしている。
それでもときどきは、不思議なくらいその時の心持ちにフィットする本にめぐりあうこともあって、たとえばそれはよくできた短編小説だったりすごく細やかな描写のあるエッセイだったりするんだけれど、湯気ですこし曇った眼鏡越しにそんな本を読んでいると、なんとなく心にポッと明かりが灯るような気がすることさえあるから、風呂読みもなかなかやめられない。

 

 

そんな中にこの本があった、たぶん3ヶ月くらい前に買ったものだ。

 

mado♯11 お金じゃ買えない | 藤原和博 | ちくま文庫 | 2001

 

□ お金じゃ買えない | 藤原和博 | ちくま文庫 | 2001

 

 

「よのなかの歩き方」なんていうそれこそsmell fishyな副題のついた本を普段なら買うわけはないし、単行本ならたとえ100円の均一棚にあったとしても手がのびているはずがない本だけれど、データベースをふりかえってみると、同じ著者の「給料だけじゃわからない」なんていう本もその時合わせて買っているから、文庫本にしかない「軽さ」のようなものが、そのときそうさせたとしか思えない。

 

 

書かれていることはそれほど悪くない、それはたとえばこんな風だ。

 

 

「物欲はもはや消えたなどと、枯れたようなセリフを言うつもりはない。自由な時間に対する欲を満たすために、どうでもいいものについて、1つずつ止めてみただけだ。それが限りある資源の中で見えない資産(invisible assets)を豊かに持つ “マインド・リッチ” を目指す近道だと考えているから。」

 

 

あるいはこんな感じ。

 

mado♯11 お金じゃ買えない | 藤原和博 | ちくま文庫 | 2001

 

「現代日本人のライフデザイン観の中心的な価値を問われたら、いったいどうこたえればいいのだろうか。ホンネのところでは結局 “うまく生きること” あらゆる変化にうまく対応してオイシイ思いをすることだといえるのではないか。日本の近代史が示してきた典型的な日本人の人生観は、そのように悲しいくらい合理的な商売感覚の強いものだったように思う。」

 

 

外国で生活をした経験のある人らしい合理的視点からなかなか鋭いところを衝いていて、同世代という個人的な興味もあって最初は面白く読んでいたんだけれど、ただずっと同じような口調で「正しい(と彼が思う)こと」を、滔々と語られてしまうと、だんだん辟易としてきてしまって、とうとう最後まで読みきれなかった。

 

 

なんとなく、最近の「自分大好き」な歌詞だらけの日本のポップソングを聴かされているような気分になってしまったのだ。

 

 

そしてふと、その前に村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」というエッセイを読んだときにも同じような気分を味わったことに気がついた。そういえば斉藤茂太先生の「豆腐の如く」っていうのもよく似た感触だったし。

 

 

すごく口当たりはよくて、オイシイもののような感じはあるんだけれど、なにかほんとうにリアルなものを見聞きしたときに胃のあたりに残るザラリとした感覚がないんだ。

 

 

「不良感」とでもいうような気配。

 

 

その前に同じように風呂で読んだ田中小実昌さんのエッセイ集にも、同じように「よのなか(このひらがな表記も相当クサイよね)」のあれこれがたくさん語られていたけれど、この人自身は「正しいこと」なんてちっとも言ってなくて、でもそのちょっとわかりにくいあれやこれやの中から、それを読んでいるぼくたちが「正しいと思うこと」を勝手に心に落としていくという感じがあって、なにかしら伝わるもののニュアンスの違いを感じる。そしてそのニュアンスの違いこそが、実は本として、あるいは芸術としての価値の決定的な要素じゃないかという気が、だんだんしてきた。

 

 

「芸術は、美しくあってはならない」というのは岡本太郎の有名なコトバだけれど、いわゆる「美しさ」や「正しさ」というのはやはりもともと少しウサンクサイもので、だからこそそれを語ることや描くことには(プロとして)細心の注意を払わなければならないし、そもそもリアリティのある真実っていうやつは、「正しさ」も「美しさ」も関係なく、小実昌さんのエッセイのように、ただただ「as it is (それがそのように在る)」なものなんじゃないだろうか。

 

 

そういえば、すこし前にカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』というとっても怖い小説を、ふとした出来心で風呂で読み始めてしまい、「ふつうなら風呂で読む小説ちゃいまっせ。ぼくの設計なので許す」と 矢部さんからtwitterで叱られたことを思い出した。

 

 

現在の風呂本は、ポール・オースターの「最後の物たちの国で」。

 

小説は面白すぎるのが問題なんだよね。

 

mado♯11 お金じゃ買えない | 藤原和博 | ちくま文庫 | 2001

 

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