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だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ | 都築響一 | 晶文社 | 2008 & 洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵 | 洲之内徹 | 求龍堂 | 2008

UPDATE : 2014/Nov/11
AUTHOR: コトバノイエ 加藤 博久

vol.10

なんともシビレる男前なフレーズ。

 

こんな風にピンポイントに胸に突き刺さってくる言葉に出会うことは、それほど多くはない。しかもそれが本のタイトルなんだから、これはもう買うしかない。

 

だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ | 都築響一 | 晶文社 | 2008 & 洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵 | 洲之内徹 | 求龍堂 | 2008

 

□ だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ | 都築響一 | 晶文社 | 2008

 

 

しかも帯にはこうある、「そんなに買って、読めるのか!」

 

べつに何を探すでもなく、深夜朦朧としてamazonの森をさまよい歩くうちにたどり着いた一冊だけれど、今手元にあるこの本を眺めていると、なんとなくこの本がもっている目に見えない引力に呼び込まれたような気がしてしかたがない。

 

いってしまえば、コトバノイエの本のすべてが、こういった必然ともいえる偶然のめぐりあいの残滓だが、そのタイトルにシンパシーを感じて手に入れるのは、ちょっと気分がちがう。しかもそれがクリックひとつで、いつの間にか手元に届いてるっていうこのハイパー感。

 

すべての本に著者や編集者がいて、そのどれもに書かなければならなかった理由や、書籍というカタチにして世に問いたい思い入れみたいなものがあるわけだけれど、それを買わなきゃならないと思う人がいつもいるわけじゃない。

 

本と人との出会いは、たまたまだったり、なんとなくだったり、これしかないだったり、デアイガシラだったり、いやいやながらだったり、そんな気なかったのにだったり、ある日突然だったり、僭越ながらだったり、まあ100あれば100のシチュエーションがあるわけだけれど、本を読むこと、そして買うことが好きな人にとって、「だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ」 というこのメッセージは、ど真ん中のストレートなんじゃないかと思う。

 

しかもそれが古本だとしたら、それは純粋に「だれも買わない本」じゃなくて、「だれも買わない本」のバツイチのようなものだから、いっそうコクが深い。

 

 

本買い人の心意気はこうだ、
— だれがなんと言っても、オレは買うよ。

 

そう、本はいつも待ってるんだ、どこかの本棚で。
買う買わない,買える買えないは、ただのなりゆきにしかすぎない。

 

「読書と人生のリアリティ」と名づけられた、この本の序に曰く。

 

「似合わないよ、それ!」とみんなに笑われて、
でも大好きな服だから、
いつまでたっても、いくつになっても着つづけてる人たち・・・
40代のゴスロリ少女や、60代の長髪ロックじじいや、
そのほかたくさんの
“いい歳して、まわりが見えてない” 人たち。
そういうふうに本とつきあえたらと、いつも思う。
「読むべき本」じゃなくて、
「読みたい本」だけを全力で追いつづけること。
それが世間的にどんな恥ずかしい本であっても、
他の本で隠してレジに持っていったりしないこと。
満員電車の中でも、堂々と開いて読むこと。
紀伊國屋のカバーなんか、かけないこと!
そういう読書人に、僕はなりたい。

 

だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ | 都築響一 | 晶文社 | 2008

 

この本はひとことでいえばそういう読書人が書いた書評の本だけど、書評というのは言ってみればひとつのブックセレクションだ。そしてブックセレクションは、思想やライフスタイルの反映でもあるわけだから、この書評集にとりあげられたいささかマイナーな本たちは、すべてそのまま都築さんのLIFEにつながっている。

 

都築響一さんは1956年生まれ、フリーランスのライター・編集者でありながら、写真家としても「ROADSIDE JAPAN – 珍日本紀行」という作品で木村伊兵衛賞を受賞している手練。

 

この人の仕事の総体をサブカルチャー/B級好みと括るのは簡単なことだけれど、ひとつひとつの仕事を検証してみると、ひとつの大きな関心として、マイナーなのに存在感のあるもの、というテーマが浮かびあがってくる。きっとそれが彼にとっての「リアル」なんだろうと思う。

 

この本でも、その「リアル」のモノサシにそった本や本屋が論じられていて、そういう意味で、この「だれも買わない」本たちは、彼にとっての宝石といってもいいものに違いない。そしてなによりも、自腹で買って評するという今や凡百の文筆家たちがとっくに忘れ去っていると思われる批評の原則を貫きとおしているそのスタイルに、この人のROCKを感じる。「おぞましい」という自分の言葉に最後までこだわって、朝日新聞の書評欄の掲載を蹴っ飛ばすところなんかも、なかなか。

 

「路傍に転がる真実」か。

 

眼が濁っていたら、偏在する真実はけっして見えてこないんだろうな。

 

 

*

 

 

いつもならここで終わるところなんだけど、今回は柳の下に2匹目の泥鰌。

 

偶然か必然か、とても長いタイトルの本に、同じタイミングで出会ってしまった。
20文字を越えるタイトルの本なんてそうそうあるもんじゃないし、続けさまにそういう本に巡りあうなんて天文学的な確率のはずだ。

 

こういうシンクロニシティーには3回目まではつきあうべきだ、というのが経験則である。
べつに合理的な根拠があるわけじゃないけれど、2度あることが3度あるのはことわざになるくらい統計学的な真実のはずだから。

 

 

□ 洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵 | 洲之内徹 | 求龍堂 | 2008

 

 

1970年代の後半に小林秀雄から「いま一番の批評家は洲之内徹だね」と激賞され、青山二郎から「『芸術新潮』では、洲之内しか読まない」とまで言われた連載エッセイ「気まぐれ美術館」の筆者洲之内徹は、銀座「現代画廊」のオーナーで美術評論家。

 

自分で同じようなことをやっているからよくわかるが、コレクターと画商というのは基本的に二律背反をかかえている。つまり、目を利かせて手に入れたイイものは、ずっと自分の傍に置いておきたいのだ。この人もやはりほんとうに気に入ったものが手に入ると、いくらお金に困っていてもそれを手放したくなかったらしく、画廊の顧客との間で売る売らないの押し問答が絶えなかったそうだ。でも結果的にはその偏執のおかげで、1987年に亡くなったとき、彼のアパートメントにはその「盗んでも自分のものにしたかった」愛蔵の絵画や彫刻146点が遺され、幸いにもわれわれは、それを「洲之内コレクション」として宮城県美術館で観ることができる。

 

この本は、そのコレクションのカラー図版と、その絵にまつわる彼の文章からなる画文集だ。

 

「一処不在の私の、絵が故郷なのだ」と語る無頼の人にとっては不本意な結末かもしれないけれど、「盗んでも自分のものにしたかった」ほどに惚れ込み、「ともかく好きな画家、好きな絵だけを選び、とくに人口に膾炙していない画家の発掘には、どんなところに出向いても交渉し、執拗な入手を果たしている(by 松岡正剛)」といわれた絵狂いの人のコレクションを目の当たりにできることはこの上ない僥倖というべきだし、その146点の絵画や彫刻たちが、「気まぐれ美術館」や「帰りたい風景」の滋味深い文章とともにカラーで掲載されたこの本は、彼が信奉したMUSEからのプレゼントのようなものじゃないかと思う。

 

洲之内さんのキュレイションは one and only 、それは「目利き」というより「偏愛」を感じさせる。個々に見ていくと、思い入れが強すぎてそれほどピンとこない作品もあるけれど、いわゆる批評から一歩も二歩も深みのある文章が重ねられたとたんその絵は輝きだし、いわば画文一体とでもいうべき境地にはいったその作品は、画家の手を離れ、洲之内芸術と化す。

 

「利行(長谷川利行)のタッチはひょろひょろしているようでひょろひょろでなく、へなへなのようでへなへなでなく、形はでたらめのようででたらめでなく、利行独得の澄んだリズムを持ち、妖しく美しいフォルムになっている。ところが偽作の利行は、利行らしく見せようとして、ひょろひょろを真似するからほんとにひょろひょろになってしまい、でたらめを真似してでたらめになってしまう。そして、そのひょろひょろとでたらめを利行だとおもっている人が、いつもその偽作に騙されるということになる。」(気まぐれ美術館)

 

「だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ」で書評のことを書いたときにも感じたことだけれど、批評のリアリティというのは、けっきょく作品への「愛(=尊敬)」からしか生まれてこないんじゃないかと、つくづく思う。

 

洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵 | 洲之内徹 | 求龍堂 | 2008

 

小林秀雄がこんな風に言っている。

 

 

「こちらから登って行くのだ、向うをこちらまで下げるという方法では到底駄目です。いい批評はみな尊敬の念から生れている。これは批評の歴史が証明している。人を軽蔑する批評はやさしいし、評家はそれで決して偉くならぬ。発達もない、創造もないのです」

 

そしてさらに

 

「真っ白な原稿用紙を拡げて、何を書くか分らないで、詩でも書くような批評も書けぬものか。例えば、バッハがポンと一つ音を打つでしょう。その音の共鳴性を辿って、そこにフーガという形が出来上る。あんな風な批評文も書けないものかねえ。即興というものは一番やさしいが、又一番難かしい。文章が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような文章が書ければ、文章は生きて来るんじゃないだろうか。批評家は、文章は、思想なり意見なりを伝える手段に過ぎないという甘い考え方から容易に逃れられないのだ。批評だって芸術なのだ。そこに美がなくてはならぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ。退屈で退屈でやり切れぬ。」(「座談/コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」)

 

とたたみかける。

 

 

小説、つまりフィクションが少ないのがコトバノイエの本棚の大きな特徴で、そうなるといきおい画集や写真集といったアート本や、エッセイや評論といったノンフィクションが多くなるわけだけれど、ほんとうの意味で、それ自体が美に昇華しているように感じる文章はそれほど多くはない。

 

だからこそときたま出会う、この洲之内徹や小林秀雄や吉本隆明や白洲正子や植草甚一や澁澤龍彦や色川武大や寺山修司の珠玉のような文章を、心にしっかりと留め置きたいと思う。

 

それにしても、いちどは「そこに美がなくてはならぬ」なんて言い切ってみたいもんだ。

Camera / toshinori cawai
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