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春灯雑記 | 司馬遼太郎 | 朝日新聞社 | 1991

UPDATE : 2015/Jan/16
AUTHOR: コトバノイエ 加藤 博久

vol.12

去年いちばん良かったのは、「気持ちいいことだけしていたい」と、はっきり言えたことだ。

 

 

もちろんこれまでずっとそう考えてきたことだけれど、心のなかに置いておくだけじゃなくて、「快適じゃなければ、地球なんてなくなったっていいんだ」という、大げさにいえば覚悟のようなものを、なんらかのカタチで表明できたことは、ちょっとした快哉だったし、たぶんこの2015年に、これまで以上に加速度的に展開されるであろう、まやかしの経済発展の物語やエコ/グリーン・マーケティングのムーブメントに対して、「まずは自分にとって気持ちいいコトを考えることからしか、明るい未来ははじまらない」というひとつのモノサシが、自分の中に設定できたのはとても大きいことだったように思える。

 

 

お金のことやエコロジーや地球環境にネガティブな気持ちを持っているわけじゃないけれど、それにまつわるphonyなものやsmell fishyなことに、はっきりと NO ! といえるのは、やはり気持ちいがいい。

 

 

そんなことを考えながら年末の雑事を終えたら、司馬遼太郎が読みたくなった。

 

なんとなく、おそらく「激動」と後述されるはずの年の初めにふさわしい気がしたのだ。

 

春灯雑記 | 司馬遼太郎 | 朝日新聞社 | 1991

 

□  春灯雑記 | 司馬遼太郎 | 朝日新聞社 | 1991

 

 

「むろん小説ではなく、まして論文ではなく、述懐というべきものである。」

 

 

安っぽい政治家がよく愛読書として取り上げたりするから、イメージとしての司馬遼太郎にはスクエアな印象がつきまとうけれど、実際に読んでみるとどの作品にも、大阪の人らしい軽みと反骨心が底に流れているし、とにかくその「知」の容量に圧倒される。

 

 

巷間人気の高い歴史小説も、もちろんとても面白いんだけど(吉田松陰を描いた「世に棲む日々」なんて最高です)、エッセイや評論のまったりとした語り口は、柔らかな滋味にあふれていて、この本もおそらく既読のはずだが、読み返すとあらためて様々な想いにとらわれ、司馬さんの one and only を噛みしめることになった。

 

 

臓器移植というテーマを、仏教の倫理感をとおして話しかける「心と形」。

肥後細川家と東条英機の、ある関わりについての述懐「護貞氏の話」。

スコットランドを旅しながら、その国の矜持について語る「仄かなスコットランド」。

文明というものを語り、日本がステートとして自立することの覚悟を説いた「踏み出しますか」。

英国的な duty の概念を語り、これからの日本のあるべき姿を示唆する「義務について」。

 

 

この5つのタイトルに共通しているのは、司馬さんが思いめぐらせる、地球という共同体のなかでの日本あるいは日本人のあるべき姿、といったようなことじゃないかと思うけれど、中でも最後の「義務について」という一文は、とても印象深いものだった。

 

 

講演をベースにした文章なので口語体である。

 

 

「どこで居眠って下さってもいいように、のんきにお話ししようとおもっています」

などと聴く人(読者も)を少し油断させながら、明治期の日本が世界の一員となるために「猿真似(=海外文化を自ら輸入し自家薬籠中のものにすること)」からしか始められなかったこと、そしてそのために明治の人たちが、江戸時代までの日本語をいったんご破算して、あたらしいコトバを造らざるを得なかったこと、たとえば 「宗教」という言葉を、「religion」の訳語として発明したことなどに言及し、この講演のテーマである「義務」という概念が、英国の「duty」からきていることまでをさりげなく「述懐」し、そしてさらに、この「duty」が、プロテスタントとなった16世紀ごろの英国人の自律心(全体のなかにおいて、自分の役割を自分で考えるということ)による発明であったことを、まるでミステリー小説の探偵のように、解き明かす。

 

春灯雑記 | 司馬遼太郎 | 朝日新聞社 | 1991

 

「自分が自分できめた−全体の中で自分の役割を考え−自発的に “自分はこうあるべきだ” として、自分に課した自分なりの拘束性、それが duty であったろうとおもいます」

 

 

ノブレス・オブリッジ(高貴の人の義務) / noblesse obligeを野暮だといいきり、責務 / obligationを語感がちがうと告げて(そして、美には繊細な人でもあった)、あえてduty という言葉を取り出し、再定義したのは、徹底して「個」の人であり、市井の人だった司馬さんの面目躍如たるところだろう。”noblesse oblige” も “obligation” も、どちらかというとニュアンスとしては上から目線だからだ。

 

 

そしてこのロンドンでの講演をこのように、愛をこめて、締めくくる。

 

 

「最近(日本は)、やっと世界という共同体に対して、一人前であることの自覚を持ちました。オトナとしては、まだ馴れない大人です。大人、一人前、世界の正会員(これは前章「踏み出しますか」からのテーマでもある)という意味は、世界や人類に対して義務感をもつかどうかということだけが、基準です。政府レベルだけが、世界に義務感をもつだけではオトナではないのです。日本人と名のつくひとびとが、一人ずつ、世界という見えざる共同体に対して義務をもつという以外に、日本が生きのびていく道はありません。

 

 

中略

 

 

『そうすることが、私の義務ですから』と、ゆたかに、他者のための、あるいは公の利益のための自己犠牲の量を湛えて存在している精神像以外に、資本主義を維持する倫理像はないように思うのです。でなければ、資本主義は、巨大な凶器に化するおそれがあるとおおもいになりませんか。

 

 

人間も企業も、つねに得体が知れなければならない。それは、新鮮な果汁のようにたっぷりとした義務という倫理をもっていることであります。」

 

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箴言。

 

 

この文章は、1990年の講演に加筆して発表されたものだけれど、その後バブルを経て、311という未曾有の災厄を目の当たりにした現在も、日本人の心的状況は何一つ変わっていない、むしろ昨今のありさまとしては、「大人としての倫理」という概念さえ消え去って、逆にすべてが幼児化してしまったようにさえ思える。

 

 

倫理というのは、心のもちかたのことである。

 

 

冒頭にあげたエコロジーに対するスタンスも、一人一人が「個」として、この duty を意識することさえできれば、つまらない誰かの金もうけに加担しなくて済むはずなんだけれど。

 

 

このことを、「まことに平凡で素朴なこと」だとサラッといえる司馬遼太郎は、やはりとても男前な人だと思う。

 

 

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