UPDATE : 2014/Oct/09
AUTHOR:
コトバノイエ 加藤 博久
vol.09
dadaと聞いただけで、なぜか心が躍る。
この本をいつもの本屋で見つけたとき、心臓が一瞬ドキンと高鳴った。

□ ダダ宣言 | トリスタン・ツァラ | 竹内書店 | 1970
文句なしにカッコイイ本だ。
フランス装のソフトカバーに函入りというちょっと珍しい体裁。
ロシアン・アバンギャルド風の書体や色使いのケースデザインは、オリジナルの写しかと思っていたが、奥附に装幀として先年亡くなった粟津潔さんの名前、さすがである。黒羅紗の表紙にシルクで刷られた極太ゴシックのタイトルが光ってる。
ダダイズムのほとんどすべてが、この本の中にある。
トリスタン・ツァラは、ダダの命名者だ。
ルーマニア生まれのこの若き詩人は22歳の時(1918年)、この本の7つの宣言で、のちにシュルレアリスムへと続いてゆく混沌の芸術の幕を開けた。
1 アンチピリン氏の宣言
2 ダダ宣言1918年
3 気取りなき声明
4 反哲学者aa氏の宣言
5 トリスタン・ツァラ
6 aa氏反哲学者が僕らにおくるこの宣言
7 弱き恋と苦き恋についてのダダ宣言
補遺 いかにして僕は魅力的で感じよくかつ優美となったか
そして、散文詩のようなエッセイ ランプ製造工場
この宣言から、いくつかの文章を抜粋する。

・ひとつの宣言を公にするには、A, B, C, を希求して、1, 2, 3, を撃破せねばならぬ。苛立ち、翼を鋭くして大小様々の a, b, c, を獲得しひろめるのだ。
・僕は宣言を書くが、なにひとつ望まない。それでも僕はなにがしかのことを語る。僕は原則として宣言に反対だし、原則にも反対だ。
・新聞を見ればわかることだが、クル族の黒人は聖牛のしっぽを名づけてダダと呼ぶ。
・イタリアのある地方では、立方体と母親とがダダである。木馬と乳母、ロシア語やルーマニア語では二重の肯定もダダ。博識あるジャーナリストに言わせれば、それは赤ちゃんの芸術だ。
・僕は体系を拒否する。まだしも容認しうるものは、いかなる体系も持たない体系だ。
・破壊行為のなかに全存在をかけた拳の講義, DADA, 安易な妥協と上品さで貞潔なセックスが今日まで遺棄してきたいっさいの方法の認識, DADA, 論理の廃棄、創造不能者たちの舞踏, DADA, ひきつったくるしみの叫び。相反し矛盾するいっさいのもの、醜怪なもの、不条理なもののからみあい。つまり、生だ。
・芸術はいちど手術を必要とする。
・感覚を錯乱させよ ? 想念を錯乱させよ。そうすれば風紀錯乱の、瓦解の、潰滅の、衝撃の、ありとあらゆる熱帯性の驟雨が、落雷から身を守る確実な行為となり、公益になることうけあいだ。
・ダダはいっさいを疑う。ダダはアルマジロだ。すべてがダダだ。ダダに警戒せよ。
・ダダは総力をあげて、いたるところで白雉の復権に努めるのだ。しかも意識的に、である。
・ダダは未来に反対する。
なんか面白いなあ、まるで Twitter みたいだ。
この本をパラパラと眺めていると、セシル・テイラーやアート・アンサンブル・オブ・シカゴ なんかのフリージャズを聴いているような、わけのわからない高揚感におそわれてくる。あるいはギンズバーグの「吠える」。
理解というものを越えたところにある、感覚的な something。
野蛮とも繊細ともとれる、無垢な精神。
ビートがケルアックのムーブメントだったように、ダダは、ツァラの運動体だった。
ヨーロッパ全体を覆っていた第一次世界大戦への嫌悪感や喪失感のなかで、閃光のように登場したダダ。
DADA NE SIGNIFIE RIEN(ダダはなにも意味しない)と宣言するツァラ。
亡命者が集うチューリッヒの、世界史上最も危険ではかないといわれた「キャバレー・ヴォルテール」を発祥の地とし、既成のあらゆる価値を否定し、すべてのものに異議を申し立て、攻撃し破壊しようと宣言した反抗の芸術は、やがてパリやニューヨーク、そして東京にも飛び火し、ブルトンやエリュアールやデュシャンやマン・レイやピカビアや辻潤や中原中也や坂口安吾といったアーティストたちが、その新しい表現に痺れた。
けれどもその高揚感のなかで、ツァラ自身が幕を引く。
ダダは、けっきょく「瞬間的な持続のなかでしか呼吸することのできない『純粋無垢の微生物』」で、ツァラ自身が回想で述べているように、「みずから棲息した、いわばめくるめくような高みを保ちえなくなったとき、1922年に、その活動を終熄させたのである。」
4年間だけの眩暈。
ツァラには、ダダを完璧な運動体として完了させたいという願いがあったのだと思う。
だからこそ、このムーブメントが散漫な発展をすることが、あるいは緩慢な死を向かえることが耐えられなかったのだ。
トリスタン・ツァラのトリスタンはフランス語で「悲しむ者」、ツァラはルーマニア語で「故郷」という意味なんだそうだ。だから、名前全体の意味では、「故郷にあっては悲しき者」というようなものになるらしい。

この世でいちばん大切な価値は、「自由」だと思う。
とにかく自由であることがすべてといってもいい。
Only the freedom shall make you free.
その自由を極限まで拡げたのは、政治でいえばアナキズムだし、芸術でいうとダダイズムだ。ほんの数年の輝きだったけれど、ツァラが希求したものは、ダダという名の自由だったに違いない。そして、芸術という舞台で、その輝きが色褪せることは決してないと思う。
若さゆえとはいえ、自らの思想を、「何も意味しない」と宣言するとは、やさぐれの極み。ランボーにせよ、ケルアックにせよ、このツァラにせよ、こんな風に「言ってのけられる」その無頼に、究極の知性みたいなものを感じるのは、ぼくだけなんだろうか。
深みで語られるものは、高みで歌われる by Tristan Tzara
そういえば、円谷シリーズのウルトラマンに、ダダという異星人がいたような気がする。なんとなく知的なやつだった、ピカソのような縞模様の服を着て。