UPDATE : 2014/Aug/07
AUTHOR:
コトバノイエ 加藤 博久
vol.07
DVDを買った。
ひょっとしたらこのメディアをちゃんと購入するのは、はじめてかもしれない。
□ 気狂いピエロ – PIERROT LE FOU | ジャン・リュック・ゴダール | 1965
きっかけは、ランボーである。
この前手に入れた金子光晴訳**のランボー全集を眺めているうちに、ゴダールのこの美しい映画のラストシーンに、ランボーの詩が印象的につかわれていたのを思いだしたのだ。
□ ランボー全集 全一巻 | アルチュール・ランボー – 金子光晴訳 | 雪華社 | 1970
自分を裏切ったアンナ・カリーナ(マリアンヌ)を撃った ジャン・ポール・ベルモンド(フェルディナン)が自らのアタマをダイナマイトで吹っ飛ばし、その爆発の炎と煙をロングショットで捉えたカメラが、ゆっくりとパンして南仏の海をとらえる、彼方に青い空。
そしてその水平線に、ランボーの詩がアンナ・カリーナの物憂げな声でオーヴァーラップする。
── 見つかった、
── 何が?
── 永遠が、
── 海と溶け合う太陽が。
ヌーベルヴァーグのアイコン、アンナ・カリーナ(named by ココ・シャネル)とジャン・ポール・ベルモンドが、まるでボニーとクライドのように(映画はこちらの方が後ですが)、破滅に向かって進んでいくありさまを、あのゴダールが彼一流の大胆なカットと乾いた視線で鮮やかに、そして切なく描いている。
顔に青いペンキを塗って、あれだけ否定していたピエロとして死んでいくフェルディナンの死に際が、とてつもなく愚かしく、そして心に沁みる。
「勝手にしやがれ(A bout de souffle)」とならんで、ヌーベルヴァーグの白眉とされる1965年のこの映画は、50年経った今でも頭がクラクラするくらい刺激的だった。
そういえば、ランボーをモチーフにした印象的なCF**もあった。
誰もいない砂漠、あるいは荒野の光景。
火を吹く大男、天使の衣裳をまとった幼女、ジャグラー、軽業師、イグアナ、そしてナイフ投げ。
フェリーニや寺山修司を連想させるサーカスの幻想的な映像に、ナレーションが重なる。
その詩人は、底知れぬ渇きをかかえて放浪をくりかえした。
限りない無邪気さから生まれた詩。
世界中の詩人たちが蒼ざめたその頃、彼は砂漠の商人。
詩なんかよりうまい酒をなどとおっしゃる。
永遠の詩人ランボー。
あんな男、ちょっといない。
(1983/ produce by 杉山恒太郎 / art direction by 高杉治郎 / copy by 長沢岳夫 / music by Mark Goldberg)
17才のときパリ・コミューンの中で「酔いどれ船」を書き、19才で「地獄の季節」、そして恋人のヴェルレーヌとの別れ、21才で詩を捨てて放浪し、あげくアラビアで武器商人になり、37才で片足を骨肉腫で切断され、妹だけに看取られながら死んでしまった早熟の詩人ランボー。
ヴェルレーヌだけじゃなく、中原中也も金子光晴も小林秀雄もボブ・ディランもパティ・スミスもデヴィッド・ボウイもメイプルソープもウォーホルもピカソもダリもケルアックもバロウズもヘンリー・ミラーもアナイス・ニンもピカビアも、みんなこの夭折した天才に痺れた。
たとえば、こんなソネット。
母音
Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、これらの母音について、
その発生の人のしらぬ由来をこれから説きあかそう。
Aは、苛烈な悪臭の周りに唸る
金蠅どもの毛だらけな黒いコルセット。あるいは影ふかい内海。
Eは靄、テントの白、
そびえ立つ氷山の槍先、王者の白衣裳、ふるえるこごめ花。
Iは、緋の装束、喀血、または腹立ちに、
自嘲に酔うて、わらいくずれる美貌の人のくちびる。
U、天の循環。みどりの海原の神秘な律動。
家畜どものちらばる平和な牧場。
偉大な博士たちの額に、錬金術師が刻みこんだ幾条の皺のおちつき。
O、かん高く、つんざくようなひびきを立てる天使らの喇叭
地上と天上とをつらぬく静謐。
Oはオメガ、天使の眼から投げおろす蛍光の光の矢。
(金子光晴 訳)
ランボーのこのサイケデリックで難解な詩に、アルコールや大麻やオピウムといった麻薬による覚醒の記憶があることは間違いないけれど、そのコトバの一粒一粒には、十代の、それも才能のある者だけにしか視えない宇宙とのブルータルな交感がある。
どんな17才にだってそういう感性が宿る一瞬はあるのかもしれないけれど、それを奇跡ともいえるタイミングで引き寄せることができるのは、やはり選ばれた者にしかできないことだ。
ROCK に殉じた Janis Joplin や Brian Jones や Jimi Hendrix や Jim Morrison のように、この19世紀のフランスの詩人 Arthur Rimbaud にも、STONE JUNKY の称号を与えてあげたい。
ランボーは、ROCKだ!
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脚注1
ランボーの詩は、ここにあげた金子光晴を始めとして、中原中也、小林秀雄、永井荷風といった文学の人や、粟津則雄、宇佐美斉といったフランス文学の研究者によるものなど、様々な翻訳があるんですが、翻訳というのはある意味ひとつの創作じゃないかと思っているので、ぼくは詩人が訳したものが好きです。
あと最近のものだったら、スピード感のある鈴木創士さんのも悪くないかな。
母音
Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音よ、
俺はいつかおまえたちの隠れた誕生を語るだろう。
A、 耐え難い悪臭のまわりでブンブン唸る
色鮮やかな蠅たちの毛むくじゃらの黒いコルセット、
影でできた入り江よ。E、靄とテントの純真さ、
誇らしげな氷河の槍、白い王たち、散形花序の震えよ。
I、 緋色、吐き出した血、
怒り、あるいは悔悛の陶酔のなかの、美しい唇の笑いよ。
U、循環、緑がかった海原の神々しい振動、
動物の点在する荒れた遊牧地の平和、勤勉な、
広い額に錬金術が刻む皺の平和よ。
O、奇妙な鋭い響きに満ちた至上の「ラッパ」、
「諸世界」と「天使たち」のよぎる静寂よ。
— 「オメガ」、「かの人の目」の紫の光線よ!
(『ランボー全詩集』河出文庫 2010)
脚注 2
「サントリーローヤルのランボーは企画から撮影・音楽録音・編集作業全てが緊張の連続で今でも鮮明に覚えている(高杉さんとの初仕事だったのです!)。僕の企画骨子は「ウイスキーは酔い!」。そして、最も酔いを知っている人物は芸術家だと思った。その中でもひときわ深い酔いといえば“詩人”といわれる人々を置いてはいない。
当時、ピストルズのJ・ロットンもパティースミスもインタビューの中で、ランボーの名をあげていた。パンクスの僕は「そうか、今はランボーの時代なんだ」と直感した。だからこそ、CMのコンテ化はとても音楽的に表現・・・したはずが、高杉さんの作る映像美があまりにも凄すぎて、僕の意図とは違って文学的に大いに評価化されてしまった!」
(杉山恒太郎氏のブログ「走れ、コータロー(スギヤマ) – さようなら、高杉治郎さん① 2013/9/3」より)